NYダウ平均株価の下落率(歴代の記録)

アメリカのダウ平均株価(工業株30種)の歴代の下落率ランキングです。ニューヨーク(NY)市場の日別の暴落・急落記録ベスト10。1日での値下がり率の順位になります。下落幅ではなく、比率(パーセント)です。下落幅で比較するよりも、下落率のほうが正確に衝撃度やダメージの大きさを把握することができます。スナップアップ投資顧問(東京・五反田、代表:有宗良治氏)のレポートなどを参考にしました。

<米ダウ工業株30種平均の下落率ランキング(日別、%、2020年4月現在)>
順位 年月日 下落率 理由・背景
1位 1987年
10月19日

(月曜)

【ブラックマンデー】
▼22.61%

終値1738.74ドル
(前日比
508.00ドル安)
「ブラック・マンデー(暗黒の月曜)」と呼ばれる伝説的な暴落の日。

アメリカの熱狂的な株投資ブームによって吊り上がっていた株価が、一気に急落した。自動操作による「プログラム売り」(機関投資家による機械的な売買)という新たな手法が、下落を加速させた。背景としては、米国の貿易赤字の拡大や中東情勢の悪化などが挙げられている。

【マネーゲーム】
その日、ニューヨークのウォール街には朝から異様な空気が漂っていた。多くの投資家が「宴(うたげ)の終焉」への不安を抱いていた。

それよりほぼ2か月前の8月25日、ダウ平均は市場最高値の2722ドル42セントを記録していた。前年末(1908ドル)より43%も値上がりしていた。レーガン政権の大減税政策などを背景に、1980年代前半から始まった米国の株ブームがピークを迎え、主婦や年金生活者までもが一獲千金を夢見て投機に熱を上げていた。金利の低下でカネ余り現象が起こり、「ハイリスク・ハイリターン」のマネーゲームが広がっていた。

【前週の急落】
そのムードに大きな変化が表れたのは、ブラック・マンデーの前の週の10月14日(水)のことだった。この日の朝、米商務省は8月の貿易収支を発表した。156億ドルという赤字の額は、史上最悪だった前月よりやや改善してはいたが、ウォール街の期待からは程遠いものだった。結局、この日ダウは史上最悪の95ドル46セント下落。これにつられるように債券、ドルも急落した。

【中東情勢】
翌日の10月15日(木)、今度は中東情勢が市場を大きく揺るがせた。1980年のイラン・イラク戦争開始以来緊張が続いていたペルシャ湾でこの日、米タンカーがイランのミサイル攻撃を受けて炎上した。株も続落した。さらに、翌日の10月16日(金)、米タンカーが再び被弾。ダウは108ドル35セント下落、史上最大の下げ幅を記録した。

【東京市場の異変】
そして、問題の10月19日(月)を迎えた。世界の株式・金融関係者の注目は、ニューヨークよりも半日早く開く東京市場に集まっていた。それまで東京市場は、ニューヨーク市場の急落にもかかわらず、下げ幅は小幅にとどまっていた。「企業業績が好調な日本は、米国と状況がまったく違う」と楽観視されていたのだ。しかし、ふたを開けてみると寄り付きから売り一色。日経平均株価(225種)は急落。下げ幅は620円18銭と史上6番目となった。

【ドミノ倒し】
独フランクフルト、パリ、ロンドンなども寄り付きから大幅安で、ドミノ倒しのような世界同時株安の様相を見せ始めていた。ヨーロッパのトレーダーたちは、株価が何らかのきっかけで戻すことにわずかな望みをつないでいたが、ロンドン時間の正午過ぎに飛び込んで来た「アメリカがイラン石油基地を攻撃」というニュースが、その夢を打ち砕いた。

【売り一色のニューヨーク】
最後に市場が開くニューヨークでは、朝から並々ならぬ緊張感が漂っていた。取引が午前9時30分に開始されると、相場は売り一色でなかなか値がつかなかった。わずか30分の間に5000万株もの売り物が出た。この下落ぶりを見て、当初は様子見していた投資家も「売るしかない」との結論に達する。「米証券取引委員会(SEO)が株式市場の一時閉鎖を検討している」と伝えられると、相場は下落幅を広げた。

【コンピューターの自動注文】
買い物がまったく入らない中、コンピューターが売り注文の山を築いていった。コンピューターを使った売買は当時急速に普及し始めていた取引手法で、損を最小限にするため、株価がある水準まで下がると自動的に売り注文を出すようあらかじめプログラムされている。これが株価の下げ足を一層速めた。

【血に染まったウォール街】
注文量が多すぎて、証券取引所の計算システムや通信網がダウンし、取引が成立しなかったり、成立が遅れたしする事態が起きた。これが投資家のさらなる混乱を招いた。とりわけ最後の1時間半の暴落がひどかった。新聞の号外には「血に染まったウォール街」といった刺激的な見出しが躍った。

【世界恐慌は回避】
翌日の各国の市場は記録的な暴落となった。日本でも日経平均が過去最大の下落率となった。先進7か国(G7)の財務相・中央銀行総裁が電話で緊急協議。金融緩和や資金供給などの対応策を素早く打ち出した。株式市場のパニックが実体経済のパニックに結び付かず、1930年代のような世界恐慌の再来は回避された。
2位 2020年
3月16日

(月曜)

【コロナウイルス】
▼12.93%

終値2万188.52ドル
(前日比
▼2997.10ドル安)
コロナウイルスの拡大によって世界経済が麻痺し、絶好調だったアメリカ株も暴落した。

中国の中部地方にある武漢市(人口1090万)で2019年12月、新型コロナウイルスの爆発的な感染が発生。2020年1月に日本、欧州、米国などへと広がった。

このころアメリカの株式相場は絶頂期を迎えており、2月12日にダウ平均は史上最高値(2万9551ドル)を記録した。3万ドルの大台が目前に迫った。

しかし、新型コロナの感染力は、想像を絶するほど強いことが徐々に明らかになり、世界の投資家の強気ムードは一変する。2月24日、世界同時株安が発生し、米ダウ平均も下げ幅が1000ドルを超えた。それ以降、米株価は急下降し、11日で1000ドル以上下落する事態が何度も起きる異常事態となった。

全米に感染が拡大し、3月15日(日)には米政府の専門機関「CDC」が50人以上の集会の中止を推奨。FRB(連邦準備制度)は日曜にもかかわらず、1.00%の大幅利下げや量的緩和の再開などを緊急に決めた。しかし、景気後退は避けられないとの見方から、3月16日(月)は大暴落となった。

取引開始から2000ドルを超える下落となり、ニューヨーク証券取引所では売買が一時中断された。それでも、売りが止まらず、下げ幅は一時3000ドルを超えた。とりわけ、消費財、小売り、航空関連の銘柄が大きく値下がりした。原油急落によってエネルギー株も急落した。

ダウ平均は2月に付けた史上最高値からの下落率が31%強に達した。
3位 1929年
10月28日

(月曜)

【大恐慌】
▼12.82%

終値260.64ドル
(前日比
▼38.33ドル安)
世界大恐慌を引き起こしたニューヨークの株式大暴落。この局面ではダウ平均が急落した日が何度もあったが、その中でも最悪の1日が、10月28日である。月曜だったため「暗黒の月曜日」(ブラックマンデー)と呼ばれた。1980年代のブラックマンデーよりも古い「元祖ブラックマンデー」である。

この前月の9月3日、ダウ平均は史上最高値381.17を付けた。1920年代にアメリカは世界経済の中心の座を手に入れ、車や冷蔵庫などの工業製品が急速に普及。ラジオ放送や映画館が登場した。いわゆる「黄金の20年代」を謳歌していた。これに伴い、従来は一部の富裕層だけのものだった株式投資が、一般の人にまで拡大。国民的なバブルが起きていた。

株価がファンダメンタルズ(基礎的諸条件)とは関係なく上がっていることは明らかであった。実体経済の減速によって農産物やエネルギー価格などが下落し、銀行の経営不安も広がるなか、ついに10月24日(木)に投機バブルが破裂する。

プロ投資家が次々と売りに動くと、これを知った一般投資家も投げ売りに殺到。注文を受け付ける電話がパンク状態になり、株価の掲示板の表示が追い付かず、大混乱に陥った。これが有名な「暗黒の木曜日(ブラック・サーズデー)」である。

しかし、本当の暴落はこれからだった。翌週の10月28日(月)、10月29日(火)が劇的な下落率となり、「ウォール街大暴落」のピークを迎えた。

この暴落に伴う世界大恐慌では、ダウ平均は直前の最高値381ドルから、翌年7月にはその9分の1にまで下落。1932年7月には41ドルになった。米国内で1300万人の失業者(失業率約28%)が街にあふれた。各国で保護主義の台頭し、経済がブロック化され、第二次大戦突入という悪夢へとつながった。

一連の大暴落の教訓をふまえ、急激な下落を止める措置が導入された。また、銀行と証券会社を切り分ける規制も導入された。
4位 1929年
10月29日

(火曜)

【大恐慌】
▼11.73%

終値230.07ドル
(前日比
▼30.57ドル安)
前日の大暴落に続く大暴落。わずか2日で25%の下落となった。この日は「暗黒の火曜日(ブラック・チューズデー)」と呼ばれている。

立ち会い開始直後から、USスティールはじめ売りが殺到。ダウ平均は9月の最高値から4割減となった。ただし、これは暴落の終わりではなく、長い下落過程の始まりに過ぎなかった。1932年まで下がり続けた。
5位 2020年
3月12日

(木曜)

【コロナウイルス】
▼9.99%

終値2万1200.62ドル
(前日比
▼2352.60ドル安)
2020年2月下旬からのコロナショック相場では、ダウ平均の1日の下落幅(実数ベース)の記録が何度も更新された。とりわけ3月12日は下落幅だけでなく、下落率で見ても記録的な値下がりとなり、リーマン・ショック時の2008年10月15日の最大下落率7.87%を超えた。

ダウ平均を構成する30銘柄すべてが大幅安となり、とくにエネルギーや消費関連株の値下がりが目立った。この時点で、2月12日に付けたダウ平均の史上最高値からの下落幅は8300ドル(28%)超に達した。

この翌日は一時的に反発したが、週明けに再び大暴落。2万の大台をあっさりと割り込んだ。
6位 1929年
11月6日

(水曜)

【大恐慌】
▼9.92%

終値232.13ドル
(前日比
▼25.55ドル安)
1929年10月に始まったニューヨーク大暴落は、11月も容赦なく続いた。一時的な底値は11月13日で、ダウ平均の終値は198.6ドルとなる。この後、いったん数か月の回復を見せたが、再び下落基調に戻り、下げ止まったのは1932年の夏だった。
7位 1899年
12月18日

(月曜)

【19世紀末の大暴落】
▼8.72%

終値58.27ドル
(前日比
▼5.57ドル安)
米国の株式市場は1898年から1899年半ばまで急伸した。投機的な買いが横行し、バブルの様相を呈していた。とりわけ産業株への過熱ぶりが目立った。

1899年11月にバブルが崩壊。12月になって、投機ゲームの中心にいたニューヨークの信託会社(Produce Exchange Trust Company)が業務停止の措置を受けると、パニック売りを誘った。

暴落のショックは大きく、株式相場は翌年の1900年も不振が続いた。
8位 1932年
8月12日

(金曜)

【大恐慌】
▼8.40%

終値63.11ドル
(前日比
▼5.79ドル安)
世界大恐慌下の株価大暴落の最終局面。1929年に始まった暴落は1932年に入っても継続し、ダウ平均は同年7月8日、41.22ドルまで下落。20世紀に入ってからの最安値をつけた。

この後にようやく反転するが、ダウ平均が元の水準に戻るには実に25年間という年月を要した。
9位 1907年
3月14日

(木曜)

【富裕層のパニック暴落(「1907年恐慌」前夜)】
▼8.29%

終値76.23ドル
(前日比
▼6.89ドル安)
1907年10月にアメリカで恐慌(1907年恐慌)が起きるが、その前兆となったのがこの株暴落である。

アメリカでは20世紀初頭に景気が拡大した。当時、米国は今でいうところの「新興国」であり、1980年代半ばから1906年までの経済成長率は年率7.3%という高水準だった。工業生産は倍増した。企業の新規上場や合併・買収が相次ぎ、資本家たちは企業の買い占めに走った。

1906年になると、旺盛な資金需要を市場が賄いきれず、資金がひっ迫した状態になった。こうしたなか、1906年4月、米国西部の金融の中心だったサンフランシスコで大地震が起き、街の半分が破壊された。保険金の支払いを迫られた米英の保険会社が資金ショートに直面。市場全体の資金不足に拍車がかかった。

1907年には保有する株を売って換金する動きが強まり、3月14日の大暴落を招いた。とりわけ経済成長を支えていた海運、鉱業、鉄鋼、鉄道の下げ幅が大きかった。主に富裕層たちが痛手を負ったことから、「富裕層のパニック暴落」と呼ばれた。

この直後に倒産した企業や金融機関は少なかったが、信用が収縮へと向かい、同年10月に恐慌へと突入する。この恐慌の影響は、米国との関係が深いメキシコやチリのみならず、オランダ、イタリア、デンマークなど、世界に及んだ。

当時の米国は、中央銀行が存在しなかった。このため、ひとたび恐慌が起きて金融機関への払い戻し請求が殺到すると、通貨が絶対的に不足するという事態に陥った。

この反省をふまえ、数年後の1913年に連邦準備制度(FRB)が創設された。
10位 1987年
10月26日

(月曜)

【ブラック・マンデーの翌週】
▼8.04%

終値1793.93ドル
(前日比
▼156.83ドル安)
ブラック・マンデー(暗黒の月曜)の翌週の月曜日。大暴落が再び起こるのではとの恐怖感から、売りが膨らんだ。